1989年10月1日。私はJFK空港に降り立ちました。目的は移住です。空港の別室に呼ばれ、入国審査を受けました。アメリカ人の夫がスポンサーとなって申請してくれていたおかげで(もちろん、その前に健康診断や病歴、犯罪歴、渡航歴、学歴、家族構成、家族の病歴まですべて調べ上げられています)、その日のうちに仮のグリーンカードが発行されました。これで、アメリカでも働ける。
翌年1月3日から、ニューヨーク証券取引所近く、ブロードウェイにあったDLJで働き始めました。今度は、日本の機関投資家向け米国株営業アシスタントです。雇ってくれたのは、その当時Wall Streetで日本人トレーダーとして伝説になっていた方と、小柄でおかっぱヘアスタイル、質のいいスーツを着こなした、冷静そうでめちゃくちゃやり手という感じの日本人女性のお二人でした。実は、このお二人には、日本でも面接を受けたことがあり、その時には不採用という結果でした。ですので、もちろん、この時も絶対不採用だと信じ、家に帰ったらリクルーターの人に「だから説明したじゃない、DLJはダメだって」と抗議するつもりでした。ところが、面接を終えて家のドアを開けた途端、夫が「おめでとう!採用だってよ」。既に電話があったのでした…。おかげさまで、この二人の上司とは、30年経った今も、一緒に旅行させていただくまでの仲になっています。
ウォール街真っただ中の仕事。
はっきり言って、最初は何もわかりませんでした。英語がわからない。株がなぜ上下するのかもわからない。有名MBA出身のアメリカ人営業たちは怖いし、トレードのチケットをトレーディングデスクに持っていくと、わからないジョークでからかわれる。おまけに、私の一番重要な仕事は、日本の機関投資家にその日のトレードの売買報告書を手書きで作って送ること。この細心の注意が求められる仕事は、およそ私のおおざっぱな性格に合っていない。株価は1/8ずつ上下するので、0.125とか0.875で計算するうえ、50万株などの大きな取引はいくつもの取引価格で株数がバラバラだから、それをそろえて一つの価格にするのも私の仕事。売りにはSECフィーがかかるし、手数料が取引によって違ったり、そもそも売買を反対に通知してしまったこともある。大体テレックスで送る時代で、AIなんて無し、エクセル手打ち、とにかく間違いだらけ、取引が多い日を忌み嫌うという会社の目的と反比例の態度。だから、家に帰る頃を見計らって東京オフィスから毎日のように電話が鳴り響く。そして東京オフィスから苦情の電話がボスに鳴る。いや~本当に、たくさん叱られました。
毎朝、暗い中を6時3分のバスに乗り、7時半に出勤、帰りは、午後4時の引けから売買報告の仕事が始まるので、夜7時半頃に帰宅するという毎日でした。苦しかったですが、上司2人も理解がある人達だったし、それに、となりの机だったインターナショナル部署のベテラン営業ハンスと、そのアシスタントのベティさんが両親のように接してくれて、職場に馴染むことができたのです。
ところが、1992年、尊敬していたあの上司が病気で退職。その後に東京オフィスから配属になった、家柄のいい、またもややり手の女性が私の上司になりました。その人もご主人のNY駐在が終わり、帰国、1994年、ついにこの私が営業になりました。
そこから、本当の苦しみが始まります。
(何度も言うが)リサーチミーティングでの英語が本当にわからない。お客様に何を伝えればいいのかわからない。銘柄を絞って勉強しても、次の日にはもう違う銘柄の話をされる。誰に、どう聞けばいいのかもわからない。ハンスには「アナリストに聞きに行け」と言われますが、アナリストと対等に話せるほどの中身がまだない。それでも恥を忍んで、何度も聞きに行きました。しまいには、相手にされなくなりました。
なんと、朝7時半から始まるリサーチミーティングの内容が、なんとなくわかるようになったな、と思えるまでに6年かかりました。でも自分のポートフォリオは惨澹で、いつも高値をつかんで安値で売る。よくもまあ、こんな営業の話をお客様は聞いていてくれたと思います。でも、当時の私はただ必死。何もわかっていないなりに、とにかく必死だったのです。
当時、アメリカで現地投資をしていた日本の機関投資家の最大手は、明治生命でした。私の担当でしたが、こんなに物事のわかっていない営業に、まともな取引をくれるはずがありません。ゴールドマン、モルガン、リーマン、野村などの日本人営業たちが、明治生命のポートフォリオマネジャーのウエストチェスターの家でのパーティに招かれても、私は呼ばれませんでした。それくらい、できない営業だったのです。
会社が引けた後は、NYインスティテュート・オブ・ファイナンスに通い、簿記や財務諸表の読み方を一から学びました。おかげで今でも、アニュアルレポートは読むのが好きです。
そんな中、何の拍子か、イギリスのある生命保険系機関投資家を担当することになりました。英語のリサーチレポートを、英語でまとめて、英語で伝える日々が始まります。そのお客様だけに集中して、彼らの持つ銘柄を徹底的に勉強しました。
そしてようやく、株というものが、一つの企業として、一つの業界として、アメリカ経済の中で、世界の政治の中で、すべてが絡み合って株価を作り上げていることが、わかるようになってきたのです。どこに負荷がかかると、株価がどう動くのか。その仕組みが、やっと面白く思えるようになりました。
次回は、ここでリーダーシップ論に戻り、私が尊敬するバリバリウォール街、元トレーダー上司が発揮してくれたリーダーシップについて書きたいと思います。