はじめまして、今泉江利子です(詳しい自己紹介は前回の記事をご覧ください)。今日から数回にわたって、1990年代のアメリカ、ウォール街時代の話を書いていきます。

新卒22歳で、母のコネで外資系証券会社、メリルリンチ証券東京支店に入社。そのころは、外資系に入る人なんて数えるほど。でも欧米かぶれで、いつかはアメリカに住みたい、と密かに思っていた私にとっては、間違えて日本の企業に入ってしまっていたら迷惑ばかりかけていたと思います。そのころのメリルは、虎ノ門にあった三井商船ビルの隣の虎ノ門三井ビルディング(現虎の門ダイビルイースト)で、下の階にはアメックスと、大きなおせんべい屋さんが入っていました。2階分を使っていて、全体で100人ほどの、こぢんまりとしたオフィスです。

本当は受付として採用されるはずが、4月、入社してみると、受付の席にはすでに誰かが座っている。「じゃあ、あなたはアシスタントね」と言われ、急遽、日本人個人向け米国株営業のセールスアシスタントになりました。

仕事自体はそれほど忙しくなく、でも、同僚のアシスタントたちがすごかった。ICUや上智大学を出た英語ペラペラ才媛ばかり。外資系らしく、日本語より英語の方が上手な斜に構えた彫りの深い美人なんかもいて。そんな彼女たちが、当たり前のように日本の外務員試験だけでなく、「シリーズ7」と呼ばれる、5時間もかかる英語の証券免許試験に挑戦していたのです。それに受かれば、次は金利や為替オプション、先物と、試験は選り取り見取り。勉強には事欠かない職場で、なんだか仕事しながら勉強させてもらって得な職場と思いました。

高校の数学はF。経済にも政治にも興味なし。興味があるのはファッションと、ロックミュージックと将来の結婚相手のことだけ。そんな私が、無料で勉強させてもらえて、試験に受かれば勲章のように「シリーズ3、5,7、15、取ったよ」とみんなに自慢できる。気づけば、すっかりのめり込んでいました。今思えば、これが私にとっての経済とマーケットの勉強の始まりでした。

でも、1987年のブラックマンデーはすごかった。ありとあらゆる銘柄が、1週間くらい値が動かない。値段がつかないのです。アメリカでは自殺した人も出て、1934年以来の大暴落。「この世は終わった」「株式市場はもう再開できない」「私たちは仕事を失うだろう」「株式市場なんて、人の人生を狂わす悪の根源だ」——25歳の、表面しか見えていない女の子は、本気でそう思いました。

それでも市場は再開し、自信なさげに揺れながらも、商いは少しずつ戻っていきました。

ところが、その2年後。私はすでに会社を辞め、アメリカへ移住する準備をしていたそのタイミングで、再び大きな暴落が起こったのです。元同僚だった女性と、「2年で2回もこんなことが起きたら、もう誰も株なんてやらないよね」と話したのを、今でも覚えています。

それなのに、「誰もやらないはずの株」と思った世界で、それも株式市場が熱狂に沸く時代を、証券業界のただ中で10年以上過ごすことになったのでした。

次回は、渡米してからの話。厳しさと華やかさのウォールストリートでの職場でのお話。英語のわからない女子が名だたるMBAを持っているアグレッシブアメリカ人営業に囲まれて、どう生き延びたか、というお話を書きます。